一、鎮座地 |
兵庫県豊岡市三宅一番地
(JR山陰線、豊岡駅で下車し六粁) |
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二、御祭神 |
田道間守命(たじまもりのみこと) |
三、由緒 |
田道間守命(たじまもりのみこと)は、第十一代垂仁天皇の御代神社鎮座地の附近に居所を定め農蚕の業を奨励し民生の安定につとめられました。
『日本書紀』によると、垂仁天皇の御代に、天皇の命を受けて海を越え神仙秘境である「常世の国」に行って、「非時香菓(ときじくのかぐのみ)」を持ち帰られましたがその時は出発してより十年目の三月で天皇は既に崩御されていました。
命は、悲しみのあまり、大和の西ノ京に近い「尼ヶ辻」につくられた天皇の陵前に「非時香菓」を献じて、”帝の神霊によって、漸く帰って来ることができましたのに帝はもう、此の世におられません。これから生き長らえても、帝のましまさぬ今何の益がありましょう”と、生きた人に申すように述べ号泣して亡くなられました。
第十二代景行天皇は、命の純忠をあわれんで、先帝の陵側に葬らされました。
これが命のお墓で近年、遙拝所も建設されています。
持ち帰られた「非時香菓」は、『日本書紀』に「今、橘と謂ふは是なり」と記されたちばなは、田道間花のつまりたるものなりと言う説も古くから行われています。 ときじくは、時を択ばずの意で、かぐのみは、かほり高い果実の意味で柑橘類の一種で、その果実は勿論花も香気高く、常盤なす名木として紫宸殿の御苑に桜と共に植えられていることは、今も昔と変りがありません。
上古では果と菓の区別はなく、果実をはじめ間食用の物を菓子と言っていたが、「橘は果子の長上にして人の好む所なり」とあるように、橘は菓子の最上品として珍重されその儘用いて供饌又は間食とし、後には果実を木菓子と言い米麦雑穀等で作った物を作り菓子と区別するようになりました。
そこで、菓子の最上品たる橘を、遙遠の地より将来されました田道間守命を菓子の祖神、「菓祖神」として崇敬するに至ったのであります。
四、沿革
嶋神社の創立は甚だ古く、第三十三代推古天皇の御代に田道間守命の七世の孫にあたる三宅の吉士、中嶋の公が、祖先の田道間守命を初めて此所に祀ったのに由来しています。
中嶋の名は、命の墓が垂仁天皇の御陵のお池の中に中島のように浮かんでいるところから名づけられたと言われています。
第四十一代持統天皇の時代には更に造営が行われたとされており平安時代の延喜式神名帳にも登載されております。
応永年間に火災にあって社蔵の古文書その他を焼失しましたが、時の領主山名宮内小輔の発願によって再建されました。
応永三十一年十一月に工を起し、正長元年(西暦一四二八年)八月に竣工し遷宮を行いました。
これが現在の本殿で、二間社流れ造という類例の少ない様式を持つ上に彩色を施し細部の絵様彫刻の精妙、複雑である点が、室町時代中期の特長を示しています。
元禄十三年には出石城主松平伊賀守が本殿を修復し、その後城主仙石久利は社領三十四石九斗を寄進しました。明治維新となり社領は返還され、六年に村社に、二十八年に郷社となり、四十五年には本殿が国宝に指定されました。
昭和に入ると、境内を拡張し拝殿社務所を改築し、十年に県社となり 十五年より十六年に亘っては、文部省の手により国宝建造物の修理が行われました。
二十五年「文化財保護法」によって、本殿の「国宝」の名が「重要文化財」と改められました。
近年菓子業者の信仰により、福岡県太宰府天満宮境内に菓祖中嶋神社九州分社を始め、佐賀県伊万里市に佐賀県分社、愛媛県松山市に四国分社、徳島市に徳島分社、京都市に菓祖神社、愛知県豊橋市に中嶋神
岐阜県高山市に久和司神社等の各分社が建設されました。
全国菓子工業組合の主催によってほぼ四年に一度、全国菓子大博覧会が開催されていますが
その開会に先立ち、この菓祖神を祭り博覧会の成功と菓業界の繁栄を祈願しています。
昭和四十四年には、境内を拡張し、四十五年には命の千九百年祭が行われまたこの年には高松宮殿下が御参拝になりました。
昭和四十九年本殿の屋根葺替と塗装をなし、五十四年には大鳥居並びに参道を建設し、平成十一年には大鳥居の塗替えを行いました。
平成十七年には本殿屋根の部分補修をしました。